前編

今年も、去年と同じように年を越すことができそうで、本当によかったと思います。
今年は色々なことがありました。
2月、祖母の米寿のお祝いをしました。
久しぶりに親戚が集まって、祖母も元気に輪投げをしたり、一緒に写真を撮ったりしました。
今考えると、祖母が元気なうちにみんなでお祝いすることができて、本当によかったなと思います。
3月、祖母の胃ろうの手術。
ここまでは何とか点滴などで凌いできたけど、嚥下がひどくなってきて、体力的に胃ろうを付けるタイミングは今しかないということで、胃ろうを付けることを決断しました。
栄養を摂取しやすくなることはうれしいことだけど、体を傷つけることにもなるので複雑な心境でした。
1週間くらいの入院だったけど、術中呼吸が止まったり大量の汗をかいたりして、帰ってきてからは完全に寝ていることが多くなってしまいました。
4月、仕事の都合で出張が多くなりました。
サポートもなく一人で全てのコントロールをやっていたので、軌道に乗るまではかなり大変でした。
どこの職場もそうなのかもしれませんが、客観的に見てうちの職場はチームでタスクをシェアしようとする考えがゼロです。いわゆる縦割りですね。
ミーティングのひとつくらいやってもいいんじゃないかと思います。
自分が上司になったら自分の仕事と部下の間違いの指摘をするだけの上司にはなりたくないですね。
4月下旬、祖母が肺炎にかかってしまい、集中治療室に入りました。
在宅では、それまで週に1回医師が往診に来て、その他に週に数回看護士がバイタルをチェックしていました。
熱が続いたり、体内酸素が少なくなったりしていたので、肺炎にかかる兆候は読み取れたはずでした。
連休前でタイミングが悪かったのもあるのですが、気がついたときには最悪の状態になっていました。
仕事から帰ってきて、空いたベッド見ながら祖母の状態を聞いたときの怒りと悲しみと虚空感は今後絶対に忘れることはないでしょう。
集中治療室での祖母はすでに意識はなく、医師からも生存率は1割くらいだと言われました。
僕は限られた少ない面会時間に訪ねる度、ひたすら脳に祖母の姿を焼き付けようとしていました。
それでも、祖母が本当によく頑張ってくれて、何とか一般病棟に戻ることができました。
ただ、不可欠になった酸素マスクは装着している部分がじゅくそうになる上、なかなか安定して酸素を取り入れることできなくなっていました。
しばらく家族で悩んだ結果、気管切開を行うことにしました。
気管切開を行うことで酸素の供給は安定しますが、声を失いまた祖母を傷つけることになります。
本当に悩みに悩んだ結果行った手術は無事成功し、状態もその後徐々に安定し、
8月、退院することができました。
入院の間は、母が完全に付きっきりで看病し、僕も仕事帰りや休みの日などにお見舞いをしていました。
母もいろんな思いがあったんだと思います。
もう少し往診の先生が丁寧に診察してくれていたら。。。
もう少し自分でなんとか働きかけることができたのではないか。。。
4月〜8月はもう怒涛のような日々でした。
感情が揺さぶられ、飛行機に揺さぶられ、上司に揺さぶられ、その中で何とか自分をコントロールして必死にやっていたと思います。
祖母は4月に母とお話をしたのを最後に意識はないけれど、一生懸命生きています。祖母の生命力に僕も支えられていると思います。
祖母と家族には本当に感謝しています。